シェアする

保存する

Life Shift

2017.03.22

ITは伝統芸能をどう未来へと導くのか。老舗出版社の挑戦

“伝統と革新”というキャッチーな言葉は、もう何十年も前から世の中に出回っている。ただ、能や文楽、歌舞伎などの伝統芸能の鑑賞の場に、具体的なアクションとして一般に見える形で現前化したのはこの数年のことだろう。インバウンド、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた施策としてでもあるが、伝統芸能を遺産化するのではなく生きた文化として継承させていくことにも一役買っている。リアルタイムで能楽鑑賞をサポートし、他言語対応の解説を提供するサービス『NOH-Tab』をリリースした株式会社檜書店の椙社(すぎのもり)友美氏に、伝統芸能の継承においてITの導入はどういう可能性を広げるのか、話を聞いた。

能鑑賞を誰でも気軽に楽しめないのには、理由がある。

「能が大成したのは室町時代。謡(能の声楽。言葉・セリフに当たる部分)はほとんど当時のままで、理解するのは難しいもの。鑑賞する人にとっても特別なリテラシーと想像力が必要な伝統芸能です。だからこそITによるサポートは効果的なのではないかと思ったのです」

そう語るのは、万治2年、1659年から、能の謡本(うたいぼん)を出版してきた老舗、株式会社檜書店の椙社友美氏。謡本とは、セリフや節付が記された能の台本のようなもので、現在もお稽古の教科書として使用されている。そもそも、能は歌舞伎と違い、舞台装置もミニマル。また、演じ手は能面を被っているので、声が籠りやすい。だから舞台で演じられているシーンは、どんな場所で、どんなことを話しているのか理解しにくい。能を鑑賞する際に、シーンを追うために謡本を開く人もいるそうだが、それでも初心者が100%理解するのは容易いことではないという。

ls_main1

「これまでも、視覚障がい者のために、イヤホンで音声ガイドを流すという方法を採用したケースはあり、それを活用するというアイデアもありました。しかし空間の静寂さと、その中で演奏されるお囃子も重要なエレメント。音声ガイドを解説のサポートにしてしまうと、生の音楽が疎かになってしまうというデメリットが生まれます。そこで、謡本でも音声ガイドでもなく初心者に分かりやすいデバイスの必要性を感じ、タブレット端末を使用した『NOH-Tab』を開発したのです」

『NOH-Tab』は、オペレーターがマザー機を持ち舞台の進行に合わせてページをスクロールすることで、鑑賞者は舞台の上で行われているシーンのセリフや解説、挿絵などを配布されたタブレット上で見て、鑑賞の手助けとして活用できるシステムだ。

ls_main2

「能は、基本的に歌舞伎などに比べると、演じ手の動作もゆっくり。タブレットを見る時間は充分にあります。セリフに加え、そのシーンをより深く知るための時代背景などの解説や挿絵も表示することで、鑑賞者の興味や理解を深められるようにしています。また、多言語対応もできるので、2020年の東京オリンピック・パラリンピックを見据えて、外国人の鑑賞者が能舞台に訪れるチャンスを増やせたらと思っています」

実際に、矢来能楽堂で開催された『富士太鼓』から導入したが、鑑賞者からは良い反応が戻っているという。ただ、伝統文化を継承してきた側から、こうしたテクノロジーの導入に慣習的な壁はなかったのか。

「演者の方の中には、自分の演技に集中して欲しいから、タブレットを使わないでほしいという方ももちろんいらっしゃいます。あくまで主催者の方からの依頼があって、導入しているサービスなので、無理強いはしていません。むしろそういった演者の方の意見を、システムやサービスに反映するように心掛けています。初期段階からのことですが、黒地に白文字にすることで画面から放たれる光を軽減し、音声もOFFに。演技の妨げにならないための設計です。また、鑑賞者が画面ばかりに見ないよう解説も1行20字まで、最高4行までの表示に留めました。鑑賞者が理解しやすく、演者の方の演技の妨げにならないバランスを図ることが、このサービスの本質ですから」

全国の能楽堂へ、スーツケースを持って赴く

物理的な問題もある。通信環境だ。『NOH-Tab』はWi-Fiを使って端末を同期させるシステムだが、事実、能楽堂は、建物自体古いものが多い。

「しかも、公立ではない能楽堂は小規模な経営が多く、大規模な設備投資が難しい場合があります。だから本サービスを導入する際にも能楽堂や主催者の設備投資を最小限にする必要がありました。具体的には、アクセスポイントとサーバーですね。そこで『NOH-Tab』のサービスを提供する際は、オペレーターがタブレットともにアクセスポイントとサーバーをひとつのスーツケースに収め、持参しています。この方法ならば屋外の能楽堂でも薪能(たきぎのう)でも電源さえあれば実施できますし、海外でも活用できますから」

ls_main3

この仕組みで、約50台のタブレットを一度に安定して同期することができるという。ただ『NOH-Tab』は反響が良く、最近では主催者側から100〜200台単位での依頼も増え、新しいシステムを模索しているそうだ。アクセスポイントを増やすことも考えられるが、するとその分費用が嵩み、主催者への負担がかかる。だから、鑑賞者自身のスマホやタブレットを利用する方法も検証しているという。実際に、2016年に横浜の赤レンガ倉庫で開催された『赤レンガ薪能』では、1000人規模の鑑賞者に対し、個人の端末を使ったサービスを展開した。

「QRコードを使って、こちらが用意したサイトにアクセスしてもらい、ブラウザベースで『NOH-Tab』と同様な自動スクローリングでの鑑賞サポートを行いました。ただ、個人の端末を使用すると、上演中に音が鳴ってしまったり、写真を撮ることができるようになってしまったり、演じ手にとってデメリットになる可能性も出てきてしまう。それをどう解消できるかが課題ですね」

“謡本の老舗出版社”としてのデジタルの活用

『NOH-Tab』の構想を始めたのが2015年。既に何度もテスト公演が行われているというから、設定された開発時間はものすごくタイトだ。なぜそれが可能だったのか。

「このプロジェクトはNTTコムウェアとの協働。もともと、NTTコムウェアが開発していたシステムがあり、それを活用しています。そして、私たちは版元。謡本に収録されているテキストや挿絵など出来上がっているコンテンツを所有していることが、開発におけるいくつかの段階をジャンプできた理由だと思います。能の曲は、220曲ほどありますが、150曲ほどを『NOH-Tab』にシステム化できれば、現在行われている公演に概ね対応できます。いまは『NOH-Tab』を実際に使っていただき、利用者の声をフィードバックさせながら、順次、曲数を増やす作業を行っている段階です」

セリフ以外のテキスト、つまり解説は法政大学の能楽研究所に、外国語への翻訳は外国人の能研究者の方に対価を支払って制作しているという。だから当然、費用はかかる。そこで経済産業省のものづくりに関する助成金に申請を出したところ、獲得が実現。これを開発に役立てているという。

「能は一期一会の精神もあり、上演は1日1回限り。歌舞伎のように、“1ヶ月公演”のようなロングタームでの興行ではありません。また、流派により文言を変える必要があるので費用対効果の問題もあります。なので、必ずしも儲かるビジネスではありません。しかし、それでもやらなければいけない。というのも、最近でこそ少しずつ若い世代も増えてきましたが、やはり能楽堂にいらっしゃる方の多くは60〜80代。ファンや鑑賞者の高齢化と比例してお稽古人口も減り、私たちが出版している本の購入者も減ることは簡単に予想できます。そのためにも、新しいファンを呼び込んでいくことは大切なのです」

最後に愚問ながら、新しいファンを獲得するためVRなどのテクノロジーを活用することも検討しているのかと聞いてみた。

「やはり私たちは、謡本を出版してきた版元。その財産は文字コンテンツ。それをITで活かすことが一番大切です。新しいテクノロジーも能楽の普及に有効であれば活用して行きたいと思います。また、私自身、檜書店の娘として育ち、幼少期はお仕舞も習いましたが、ある時からクラシックバレエに夢中になってしまったんですね。そして、『NOH-Tab』に取り組む前までは、外資系の証券会社に勤務していました。その頃は仕事柄、毎月のように海外出張を繰り返していたのですが、日本を離れる機会が増えれば増えるほど日本の良さを再認識するようになりました。そして、着物が好きになったり、お茶を習ってみたり。同時に、能の舞台で使われる道具や装束の美しさにも改めて惹かれるようになりました。能の本質的な美学とは何か、自分たち日本人がきちんと語れるようになってほしい、そして海外の方にもより知っていただきたいということも、大きなモチベーションになっていると思います」

ls_main4


椙社 友美

株式会社檜書店取締役。外資系金融に勤務の後、2015年に家業である株式会社檜書店に入社。『NOH-Tab』の立ち上げからプロジェクトに携わっている。


PHOTO BY TOSHITAKA HORIBA
TEXT BY MASANOBU MATSUMOTO